たたみ半畳の宇宙観— (特別寄稿)
アウトソーシング事業部 成瀬 功「禅は人生を楽しくする最大の戦略」と言った人がいたように、曹洞宗では死後の世界を語ることはしない、という話を聞いて驚いた。禅の目的は信仰ではないのか、という私の問いには、修行僧の方が驚いていた。「信仰」という言葉は久しく聞いていなかった、というのである。では、なんのための坐禅修行なのだろう。
禅僧の一日
禅僧の一日は畳の上に黙して坐し、食し、そして眠ることで殆どを占める。その目的は、私が2年前にフランスで同じように体験入門した観想修道院の修道士たちの、神に自分の存在まるごと捧げるというものとは大きく異なっていた。曹洞宗禅僧の修行は、彼らひとりひとりの、人間としての生きかたの究極の追求であった。
朝3時半に起床。3時50分より坐禅の一日がはじまる。一回の坐禅はお香一本分のおよそ40分間。それを2回行うと、本堂で読経等を行う「朝のお勤め」というものがある。参禅者という立場の違いもあるであろうが、一日で仏教的な儀式に参加したのはこの「朝のお勤め」だけであった。それ以外は掃除と、一日で合わせて1時間ほどの休憩を除いて、すべての時間が修行であった。沐浴も無言の行として修行の一環とされ、食事も坐禅のまま「いただく」のであった。
「いただく」
この、「いただく」という姿勢に、すべてが集約されていると感じた。命の尊さをすべてに感謝し、与えられた食物を一切の無駄を残すことなく「いただく」こと。曹洞宗の食事作法は厳格さで有名だが、それもすべてこの「いただく」という姿勢から生まれている。無駄な動きが完全に排除された「究極の作法」と呼ばれるこの食事作法は、茶道の基礎となったという。箸の先にもお椀のすみにも何も残すことなく、一連の作法の最後にお椀を洗うのに使う香湯さえ、感謝して「いただく」。つまり、飲む。禁欲という姿勢ではなく、徹底された無駄の排除であり、それはすべて、感謝の表れであった。
その感謝は、食事として自分の命を支えるものに向かうと同時に、自身の命にも同じように向けられる。合掌とは、自分の命と、それを支える他のすべての命の重なり合いを象徴している。そして、合掌の姿勢は最高の感謝と、敬意を意味している。生きとし生けるものの連なりのなかで、より良い生を追求する。これが曹洞宗の坐禅の真意であるという。
「水の如く」
より良い生とはなにか。その定義は文化や教義、個人によってもさまざまであるし、曹洞宗総本山永平寺が良しとする生とはこのようである、などと3泊4日の私が言えるはずもない。だが私が坐禅の実践の上で教わったこと、それは「水の如く」というひと言であった。
不満やストレスの要因は僧であれ俗衆であれ少なからずある。それらすべてに対決せず、水の如く流れる。無限の時間という大河の流れ、生けるものの命の流れに、水のように従うこと。流されるのではなく、ともに流れるということ。「無我」とはなにも考えないことではなく、思考の流れにすらまかせることであるという。そして水の流れは、ときに岩をも穿つ力を持つのである。
流れ、流れゆくもの
私はこれだけを、持ち帰ろうと思った。日常の生活は得てして厳しく、対決を強いられる。逃れられない選択がある。それらから逃げろという教えはない。しかし不要に苛立つことも拳を挙げて戦うことも、等しく「無駄」であることもまた真実であると感じた。坐禅3日目の夜、私は絶え間なく流れる思考の中で、ふと抵抗をやめていた。疑問も不安も過去に対する悔恨も、すべてが大きな流れの中にあった。
気がつくと、私はとめどなく泣いていた。悲しいわけでも辛いわけでも、また嬉しいわけでもなかった。ただ、さまざまな顔や姿を持つ私という人間と静かに対座し、体から流れるものを、流れるにまかせていた。
個は全であり、全は個。全は禅を通じて個に宿り、個は禅によって全とひとつとなる。たたみ半畳という宇宙の中で、私が感じたことである。
弊社代表のコメント
弊社の組織は、世界の最先端の考え方、マネジメント思想を社内に持ち込み、それを実践し、その結果から得られたものを社会に還元しようと努めています。一方、個々に関しては、この地で生まれ、この地で育ち、この地で生き、この地で子孫に引き継いでいく人生そのものに、誇りと自信と勇気を提供しなければならないと常に考えています。日本人として誇りを持つことが国際人として一歩である、そのように思います。禅と日本文化は非常に強いつながりがあると認識しており、坐禅修行の推奨はこのような観点によって行われています。
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